2025年10月16日
最近、podcastか何かで「ソバーキュリアス」という言葉を聞いた。「しらふ(sober)」と「好奇心を持つ(curious)」を合わせた造語で、要は「体質的には酒が飲めるけど、あえて飲まないスタイル」を指すらしい。これを実践している人を「ソバキュリアン」と呼ぶようだ。
わざわざ新語を作るほどか?とも思ったが、名前をつけることで初めてその存在を認識できるというのは確かにあると思う。なにより、私自身がソバキュリアンに該当することに気づけた。
私の場合、体質的にはまあまあ飲めるし、特別な場では少し飲酒することもあるのだが、日常生活では酒を飲むタイミングがない。
まず飛騨の農村部に住んでいると車移動必須なので、酒を飲めばその日はもう自力で遠出できなくなる。突発的な買い物にも行けなくなるというリスクを追いたくない。
また、仕事から帰ると大抵は自炊をして子供を入浴させるので、飲酒して手際が悪くなるのは嫌だ。入浴後も、寝る直前まで文章を書いたり勉強したり読書したりしていることが多いので、飲酒でパフォーマンスを落としたくない。
さらに飲酒して寝た翌朝、あの二日酔いの気分の悪さに襲われると午前中が台無しだ。趣味というかライフワークと化している農作業、山の管理、ビオトープ観察等を朝からできないのは大変損した気分になる。
端的に言えば、自分の今のライフスタイルや打ち込んでいる趣味は酒と競合する。そのため自然と酒と距離を置くようになり、全く意識しないうちにソバーキュリアスを長いこと実践していた。
自分ごととなると関心が湧いてきたので、この言葉を提唱した方の著書を読んでみた。ルビー・ウォリントン著、永井二葉訳「飲まない生き方 ソバーキュリアス」。
アルコールの心身への影響を扱っているので医学的な解説もあるかなと思ったが、大半は実体験を織り交ぜた自己啓発的な内容。ソバキュリアン達の幸福度とか健康とかを学術的に検証してデータで語るような内容ではないので、普段だったら自分は読まないジャンルだろう。たまにはそういう本もいいか。
本書はアルコールが社会の中で支配的な位置にあることに疑問を提し、飲酒しないことの健康面・社会生活面でのメリットを紹介して、あえて飲まない暮らし「ソバーキュリアス」の魅力を説いている。
アルコールが社会の中で支配的、という指摘は確かに自分も思い当たるフシがある。
今日日はさすがに飲めない人に飲酒を無理強いするようなハラスメントは見かけなくなった。しかし、飲み会の席で酒を飲まない場合は「今日は車なんで…」「飲めない体質なので…」のように理由を説明しないといけない風潮はまだあるよな、と思う。まだ「飲むのがデフォルトだけど、飲まないのも事情があれば許容してあげましょう」という意識がどこかに残っており、飲まない人の方が頭を下げて受け入れてもらうという力関係を、飲まない側も内在化させているのかもしれない。
別に悪いことをしているわけではないのだから、もっとナチュラルに「飲みません」と言える雰囲気を作っていきたいよなと思う。本書ではアルコールに頼らなくても飲み会の席でうまく立ち回る方法も指南しているので、これを参考に職場のソバキュリアンポジションを確立して他の飲まない人たちが過ごしやすくするのも面白かろう。
なお、本書では酒を飲んでいる人を非難してはいけないとも述べている。それはそう。酒飲みを攻撃し始めたら、それはむしろ飲まない人達の立場を悪くするだけだ。他人の飲酒行動をとやかく言うのではなく、自分自身がアルコールに頼らずに世界を楽しんでいる姿を見せればいい。
酒を飲まないメリットや酒の誘惑を断ち切る方法も本書では多くの紙面を割いていたが、私の場合はもう実体験として感じていたり既に克服済みだったりしたので、結構読み飛ばした。何かのきっかけでアルコールの誘惑が強まったら読み返すかもしれない。

結局のところ、ソバーキュリアスは私にとって既に長年実践していたことだった。特に自覚なくソバキュリアンと化していた、というか自分のような存在がいつの間にか勝手にソバキュリアンと名付けられていた。しかし本書を読むと、なかなか壮絶な失敗を経てソバーキュリアスを志し、大変な苦労をして酒と距離を置いている人々も紹介されている。そこまでして達成する人もいるソバーキュリアスを、特に苦労することもなく自然に続けられている自分の今の状況はとても恵まれているのかもしれない。
他の人達が飲酒したり二日酔いで苦しんだりしている時間に、畑に行き、本を読み、勉強していることで得られる楽しみや自由はなかなか侮れない。酔わずに世界と向き合う時間を引き続き楽しみたいと思う。

